古き時代、この世には物の怪や化生というものは実在していた。それらはかつて、人との繋がりも有していた。無論、繋がりといっても穏やかなものばかりではない。物の怪や化生たちの行動の多くは人を害し、人はそれらに襲われることを畏れる存在だったのだから。今でこそそのような化外の物たちを見ることはなくなった。彼らがいなくなったのか、それとも姿を隠しているだけなのかは定かではない。

 これは、まだ人と物の怪に繋がりがあった頃の話。

 一人の男が街道を歩いていた。街道といっても、特別舗装がされているわけではない。木々生い茂る森の中、人が歩ける程度の幅で草の生えていない土が続いているくらいだ。一目見ただけで、田舎の道であることが分かる。おそらくどこかの村へ向かう途中なのだろう。だが、男の身なりは普通の村人のそれではない。街の役人が着ていそうな、そこそこ上等な衣服である。
「村へ帰るのも久しぶりだな」
 男は名を佐野武久といい、この街道の先にある村の出の者である。役人のような身なりをしているのも当然で、ある街で役人の職についているためだ。
「しかし、奇怪な病とは何のことだろうか?」
 そう、彼が村を訪れようとしているのには理由がある。数日前、彼は上官からある職務を任ぜられた。上官曰く、ある村で今までに見たことのない奇怪な病が流行っており、近隣にある役所としてその病を調べよ、とのことである。彼がその村の出身であると知り、上官が適任と考えたらしい。こうして、奇しくも彼は職務兼帰省をすることになった。
「身内の者なら警戒されにくいというのもあるのだろうが……まさかこんな形で里帰りをすることになるとは、世の中、何があるかわからぬものだな」

 日が傾き、彼が村への足取りを速めようとしたとき、ふと道端にうずくまる小さな獣を見つけた。近寄ってみると、それはいたちの仔だった。よく見ると、その足は血で赤くなり、細い糸のようなものが巻きついていた。
「猟師の罠にでもかかったか。しかし、このように小さいいたちなど、とって食おうとも思うまい。親も心配しているだろうし、どれ、外してやるか」
 慣れた手つきで糸を手早く外してやり、手持ちの布を小さく裂いて仔いたちの足に巻いてやった。
「これでよし。さあ、もう罠になどかかるなよ」
 その言葉を聞いてか聞かずか、仔いたちはよろよろと森の中へ姿を消した。それを見届けて、彼は再び村へ向かって歩き出した。
「さて、日暮れまでには着けそうだな」
 太陽は遠くに見える山に消えようとしていた。

 

* * *

 

 武久が村に着いたのはだいぶ日が傾いた頃だった。彼が最初に感じたのは血の臭いだった。しかし、時間の経過により景観が多少変わっていたものの、村には変わった部分が見られない。不謹慎だが、死体でも転がっていればこの血の臭いを説明できたかもしれない。しかし、特にそのような不審な様子はない。
 武久が不審に思いながら村に入ろうとすると、民家のひとつから一人の娘が出てきた。端整な顔立ちに肩あたりまで伸びた黒髪、年は十代の中頃だろうか。その娘は武久の姿を見るや、驚いた表情で近づいてきた。
「兄さん、どうしたの? 帰ってくるなら先に文くらいくれればいいのに」
 武久は刹那怪訝な表情を浮かべたが、相手が誰であるかをすぐに理解し、驚きの声を上げた。
「兄さん……もしや、巴か!? 見違えたぞ!」
「なぁに? もしかして妹の顔、忘れちゃってた?」
 話しかけてきた娘は佐野巴、武久の妹である。男子三日会わざれば刮目せよと言うが、年頃の女子にも充分当てはまる。ましてや、武久が前に村に帰ったのは三月も前のことなのだから推して知るべしである。武久がばつの悪そうな顔をしていると、巴はクスクスと笑いながら話を続けた。
「それで、どうしたの? その格好ってことは、里帰りってわけでもないのかしら?」
「ああ。役所から、村に蔓延する奇怪な病を調査するように言われてな」
 巴に問われ、武久は自分がここに役人としてやって来るまでの経緯を簡単に説明した。そして、ひとしきり説明したところで彼女に尋ねる。
「時に、その奇怪な病というのは、村でどのくらいの者たちが罹っているのだ? 俺自身、まだ詳しいことが分からないのだ。もし、会って話をしても大丈夫な患者がいるようなら、話を聞いておきたいのだが」
 そう、彼はただ奇怪な病と言われただけで、具体的にどのような症状がでるのかというのは知らされていない。故に、それを何気なく聞いたのだが、巴はどこか寂しげな表情を浮かべて答えた。
「……最初は村の猟師が数人だけだったんだけど、今じゃもう、村の中で罹っていない人はいないよ。私もそうだし」
「なに……?」
 武久は医術には明るくないので病に詳しいわけではないが、少なくとも今目の前にいる妹を見る限りでは、とても病を患っているようには見えない。そう思って怪訝な表情をしていると、それをどう捉えたのか巴が口早に言った。
「あ、でも大丈夫。動けないわけじゃないし、人に移ることもないから」
 動けないわけではないという言葉に少し安心したが、その後の言葉から武久には疑問が生じた。
「人に移らないにもかかわらず、村で罹っていない者がいないというのはどういうことだ? それに、今のお前を見るに、病に罹っているようには見えないが……その病とは、どのような症状が出る?」
 武久が聞くと、巴は戸惑ったような顔をした。少し早急に話を進めすぎたかと思っていると、巴が努めて明るい声で言った。
「折角帰ってきたのに立ち話じゃなんだよね。とりあえず、家に帰ろう?」
「ああ、そうだな」
 自分も少し話を整理してから詳しいことを聞いた方がいいと思ったので、武久は巴の言葉を受けて自らの実家へと向かった。
「お父さん、兄さんが帰ってきたよ。さ、兄さん入って」
「久しぶりだな、親父殿」
 佐野家は三人家族だ。武久と巴、そして父親。母はいない。兄妹がまだ幼かったころに病で亡くなった。父親は男手ひとつで、木材の伐採業をして二人を育てた。大木を悠然と切り倒し、またそれをひょいと担いで運ぶ父親の姿に、武久は幼いながらに憧れを抱いていた。そしてそれは今も変わらない。
 だが、彼が家の中で見たものは、そんな父親の姿ではなかった。まるで病人のように静かに横になっている。加えて、家の中は村に入ったときの血の臭いを強く感じた。
「おお、帰ったか武久」
 口を開くのもやっとという風な父親の声は、昔の様子からは想像できないほどか細いものだった。
 巴に支えられて上体を起こした父親は、幾分落ち着いたようだったがやはり顔色が優れない。まるで体中の血の気が引いたようだ。
「どうしたというのだ、親父殿は。この病はそんなに重いものなのか?」
 武久は父親にあまり口を開かせないよう、あえて巴のほうに話の続きをするよう促した。巴は、少し顔を俯かせながら言った。
「どこからか風が吹いてきたかと思うと、身体のどこかが傷ついていて、その傷からずっと血が流れてくるの。押さえても、時間が経っても、完全には血が止まらない。怪我とも病気とも呼びにくい症状よ。鎌鼬の呪い……なんて、長老は言っていたわ」
「鎌鼬……尾が鎌のように変じたいたちの化け物のことか? しかし、鎌鼬がつける傷からは血が流れないはずだろう」
 この村には鎌鼬の伝承があり、それによると、鎌鼬は三匹で行動し、一匹目が相手を転ばし、二匹目が斬りつけ、三匹目が薬を塗る。皮膚が割れたように傷ついても血が出ないのは、三匹目が薬を塗ってくれるからである、となっているのだ。つまり、鎌鼬によって傷が付いても、血が止まらないなどという事態はあり得ないはずである。
「長老の話では、村が森の怒りを買ってしまい、三匹目が薬を塗るのをやめたらしいわ。……私はこの村が森の怒りを買うようなことをしてるなんて思いたくない。確かに猟師は獣を捕るし、お父さんみたいな仕事の人は木を切るわ。でも、それは私たちが生きるために必要なことだし、今までもずっとあったことじゃない!」
 言葉が進むにつれて、巴の口調は荒く早くなる。先程までは感じられなかったが、今までになかった事態に、やはりかなり参っているのだろう。
「落ち着け、巴。お前の傷にも障るだろう」
 武久は優しい口調で話しかけ、巴の肩を軽く叩く。
「あ……ご、ごめんなさい。取り乱しちゃって。あら、お父さん?」
 落ち着きを取り戻した巴は、自分が支えていた父親が気を失うように眠っていることに気がついた。父親の消耗は想像以上に大きいらしく、起きているだけで大変なようだった。
 父親を再び横にする巴を見ながら、武久はある決心をしていた。巴が父親を横にしたのを確認して、武久は口を開いた。
「鎌鼬たちは森にいるのだろう? なぜこのようなことをするのか、俺が直接、彼らに聞いてこよう」
 巴は兄に向き直り、少し暗い顔をして答えた。
「そう……お勤めですものね。でも兄さん、今日はもう暗いから、せめて明日にしてちょうだい」
「ああ、そうだな。では明日の早朝、森へ行くとしよう」
 そう言って、二人は夕餉の仕度をし、父親に食事をさせた後に自分たちの食事を済ませ、床についた。その日の夜は、久しく家に帰ったというのに、武久は険しい顔をして眠っていた。

 

* * *

 

 夜が明けた。武久は昨晩言ったとおり、日が昇り始めるのとほぼ同時に家を出た。早朝であるにもかかわらず、巴も軒先まで出てきていた。
「では、行ってくる。親父殿のことは頼むぞ」
「ええ、行ってらっしゃい。兄さん、気をつけてね」
 そんな言葉を交わして、武久は足早に鎌鼬が住むという森へ向かう。
 森の中は、特段不気味な雰囲気はなかった。木々の梢では小鳥たちが啼いていたし、狸や狐というような獣も思い思いに歩いていた。その光景は、この森に鎌鼬が住んでいるなどと言われても信じられなくなってしまうほどだ。
「しかし、鎌鼬に会うなどと言っても、一体どこをどう探せばよいのだろうか……」
 などと言いながら、武久が森の奥へと進んでいると、その途中で猟師のような格好をした男と遭遇した。武久が見覚えがないので、おそらくどこか別の地からやって来たのだろう。男は獣を捕まえるための罠を仕掛けているらしかった。武久は、男が鎌鼬に襲われては大事だと思い声をかけた。
「もし、そこの猟師の方。この森は呪われているようです。獣を捕るならば、別の森にした方がよいかと」
 武久に声をかけられ、猟師風の男は振り返った。その顔はこの上なく怪訝な表情を浮かべていた。見ず知らずの男に呪いなどと言われて、不審に思わないわけがない。
「なんだあんたは。そんなことを言ったって、俺たち猟師はこうして獣を捕らにゃあ生きられんのだぞ」
 不満を隠さない声でそう言う猟師に、武久は村で起こっている現象について説明した。すると猟師は大声で笑って言った。
「がっははは。第一、木や獣を捕られたくらいで森が怒るものか。森は、人が生きるために必要なもんをよく知ってる。森の怒りを買うというのなら、余程森が怒ることをしているのだろうよ」
 武久には反論の用意はなかった。実際のところ、村が森の怒りを買うようなことをしていないという確証はなく、彼が知らないだけかもしれないからだ。
 若干俯いた武久を見て、猟師は笑うのをやめて言った。
「だがまあ、それなら確かに鎌鼬とやらに話を聞くのが早そうだな。俺も、猟をして呪われたんじゃあ敵わん。あんたの鎌鼬捜し、手伝ってやろう。獣の動きなら、あんたよりは知ってるはずだぜ」
「願ってもないことです。どうぞよろしくお願いする」
 猟師は黄凱と名乗った。彼に先導されて、武久は鎌鼬捜しを再開した。

 武久と黄凱は森を進む。武久は、奥へ奥へと進むのに、黄凱がただのひとつも罠を仕掛けないことに若干の不審を抱いていた。しかし、自分の目的を助けてくれる良心か、あるいは呪いへの恐怖からだろうと思い、深く考えるようなことはしなかった。
 森を進む、進む。森の奥はかなり木々が生い茂っており、視界も危うくなるほどだ。黄凱が持っていた草刈り用の鎌がなければ、満足に先に進むこともできなかっただろう。
「しっかし、けったいな森だな。こんなに進んでも、まだ果てが見えやしねえ」
「俺もこんな奥まで来たのは初めてですが、ここまで広い森だとは知りませんでした」
 まっすぐ進んでいるつもりではあるが、もしかしたら同じようなところを巡ってしまっているかもしれないなどと考えながらも、二人はただ奥を目指す。
 しばらく進むと、少し開けた空間に出た。急に日の光を受けてしまったため、武久は少し目が眩んだが、しばらくして目が慣れてくると、その開けた空間に二人とは別の誰かがいることに気がついた。木々を調べているらしい白衣の男。白衣を着ているようだから、恐らく医者か何かだろう。そんなことを考えていると、白衣の男が二人に話しかけてきた。
「や、あなた方は? こんな森の奥まで来るとは……その出で立ちは猟師の方ですかな。こんな所まで来ても、捕れるような獣はおりませんよ」
 そう言うと、男は手にしていた木をそこらに放り、二人の方へ寄ってきた。
「いえ、俺たちは鎌鼬を探していまして」
 武久がそう言うと、男は目を丸くして口を開く。
「ほう、そうでしたか。実を言いますと、私も鎌鼬を探しに来ていましてね。厳密には彼らの持つ秘薬を探しに来たのですが」
「秘薬?」
 黄凱がオウム返しに聞くと、男は満足そうに頷いて話を始めた。
「鎌鼬に斬られたときに、血が出ないのはご存じですね。加えて、斬られたときに痛みも感じない。それは、鎌鼬が持つ秘薬のおかげなのです。私は都の方で医療をしている者で、その薬があれば多くの人を救えると思い、鎌鼬の伝承の残るここまで来たというわけです」
 ひとしきり喋ると、男は思い出したように自己紹介をした。もっとも、今の話にあった医者であるということと、名が芳泉ということくらいのものだったが。
 武久も軽く自分のことを話し、ここまで来た経緯を説明した。すると、芳泉は顎に手を当てて言った。
「ははぁ、そういうことなら、確かにあなた方の言うとおり鎌鼬に話を聞いた方が早そうだ。どれ、ひとつ私も同行させていただけますかな? こんな所まで来たのはいいものの、正直どうしたものか悩んでいたもので」
「それは勿論かまいません。それと、もし鎌鼬探しが終わった後に時間がありましたら、どうか私の村の者を診てやってはいただけないでしょうか」
 武久がそう言うと、芳泉は再び自らの顎に手を当て、ただ一言、
「考えておきましょう」
 と言った。

 三人は、再び森の奥へと歩き出す。相変わらず森は鬱蒼としており、やはり黄凱の鎌を使って進むのがやっとだった。
「時に武久殿。貴殿は件の村の出とのことだが、貴殿自身にはその呪いはかからなかったのか? 村人は例外なくその症状が出ているようだが。それに、村にいたならば森の怒りを買いそうなことに心当たりがありそうなものだが」
 不意に、武久の後ろを歩いていた芳泉が話しかけてきた。急に背後から声を掛けられたので驚いたが、武久はあくまで冷静に答えた。
「俺はこの近くにある街で役人の職に就いているので、ここのところ村にはいなかったのです。ですから、呪いからは逃れられましたし、そのようなことに心当たりもないのです」
「ほう、では何故わざわざ危険を冒してまで鎌鼬に会おうとする? 村のことは村人に聞けば事足りるだろう。それとも、貴殿も私のように鎌鼬の秘薬を手に入れようというのかね」
 興味深い、とでも言いたそうな口調で芳泉が質問する。当然、武久もそれは考えた。村のことは村の者に聞けばいい。しかし、
「もし、村の者に後ろめたいことがあったとしても、わざわざ告白するとは思えません。更に始末が悪ければ、自分たちの行いが悪行であることまで忘れてしまうこともあります。我々が何をしてしまったかを聞くならば、被害を受けたであろう相手自身に聞いた方が確かな話を聞けると思ったのです」
 武久はそう答えた。そうなのだ。村の者を信用しないわけではないが、身内からの話ばかりでは自分たちの何が悪かったのかに気が付くことが出来ない。自分たちに非があれば詫びたい、武久にはその想いがあったのだ。
「それは立派なことで。もしかしたら、話も聞いてもらえず切り捨てられるやもわからないのに」
「それならそれで仕方のないことです。それが天命と受け入れましょう」
 芳泉の残酷な一言に、武久は静かに答えた。それを受けて、芳泉がふんと僅かに鼻を鳴らしたのだが、その音は武久の耳には届かなかった。

 もうどれほど森を進んだだろう。木々が生い茂っているため大陽の向きは分からないが、もう昼はとうに過ぎているだろう。もしかしたら夕刻にさしかかっているかもしれない。そんなことを考えながら更に森の奥へと進むと、先程のよりは狭いものの、再び開けた空間に出た。すると、突然黄凱が鎌を振るうのをやめてしまった。
「どうされた、黄凱殿。何かあったのですか」
 武久が尋ねるも、返事がない。黄凱はゆっくりと武久に、いや、芳泉の方を向いて言った。
「なあ兄貴、もうそろそろいいんじゃねぇか?」
 黄凱の言葉を受け、芳泉は静かに頷く。頷いた途端、三人の周りに急に風が吹き始めた。目を覆いたくなるような荒々しい風の中で、黄凱と芳泉の姿が人のそれから外れていく。身の丈六尺はあろうかという巨大ないたちの姿に。更に恐るべきはその尾である。芳泉のそれは真新しい箒の先のようにすらりと伸び、黄凱のそれは先程まで彼が持っていた鎌の如く鋭く光っている。
「これは一体どういうことか、説明をいただけますか」
 努めて平静を装い、武久が尋ねる。逃げだそうにも、あまりに風が強く動くことすらままならない。
「見たままだ。私たちが貴殿の捜していた鎌鼬そのものよ。昨日の晩に貴殿が村に入ったのを見かけ、村人に復讐するため貴殿を狙っていた。今日の日暮れにでもできればよいかと思っていたが、貴殿がわざわざこちらに来てくれたので手間が省けた」
 芳泉が獣の姿のまま、しかし先と変わらぬ声で答えた。獣が人の言葉を話しているというのは、この上なく違和感がある。
「何が悪かったかって? てめえらが好き勝手に意味もなく森を荒らしだしたからだろうが!」
 黄凱が声を荒げて今にも武久に斬りかからんと刃になった尾を振り上げる。しかし、それが振り下ろされる前に、芳泉が制止の声を掛ける。
「やめよ黄凱。この者には聞く権利があろう」
 言われた黄凱は渋々と尾を引いた。武久は安心した反面、黄凱の言葉がひどく気になった。
「我々が好き勝手に森を荒らしだした……? どういうことです、芳泉殿」
 他に呼びようもなかったので、名乗られた名のまま呼びかける。その言葉に、怒りを抑え込むような、無知を哀れむような声で芳泉は話し始めた。
「そうだ。今から一月ほど前のことになるか。村の若い猟師たちが、日々を生きるのに必要な獣の他に、傷つき逃げ惑う姿を見て楽しむために多くの獣を狙い始めた。人が生きるための狩りならば、我らとて目を瞑ろう。それは、我らが虫を捕って喰わねば生きられぬのと同じことだからだ」
 そこまで言うと、芳泉は小さく溜息をついた。自分が語る内に感情が高ぶらないようにしているのだろう。もっとも、武久にはそんなことを考える余裕はなく、ただ村の者がそのようなことをしていたことに驚いていた。
「だが、いたずらに同胞の命を奪われるとあっては話は別だ。人も我らも同じこの世に生きるものだというのに、どうして暗い悦楽のために殺されねばならぬと言うのだ。……獣たちの恨みの念は大きい。彼らの怨念に呼応して、我ら兄弟の妖力も高まっていった。しかし、我らはまだ人に恨みを晴らさんとするのを躊躇っていた。過ちを犯しても、人はやり直すことのできる生き物と信じていたからだ。だが、獣狩りが収まる気配はなかった。我らは同胞と我が身を守るため、人が動けぬよう、森に入ってこぬよう彼らを傷つけた」
 そこまで言って、芳泉は瞳を閉じ、再びその瞼を上げた。武久は、その様子を瞬きすら忘れて見つめていた。気が付けば、先程まで吹いていた荒々しい風も既に止んでいる。思えば、芳泉が話を始めた頃から止んでいたような気もする。
「これで分かったであろう。自分たちが狙われる理由が。元凶は人間にあるのだ」
 これで話は終わりだとでもいう風に、芳泉は黄凱に目線を向けた。それを受けた黄凱は、待っていたと言わんばかりに自らの尾を振り上げた。
「さらばだ。傷無き最後の村人よ」
 芳泉が告げ、黄凱がその尾を振り下ろそうとした刹那、
「だめだ! 待ってくれ、兄さん!」
 聞き覚えのない声がした。二匹の鎌鼬も驚いたらしく、黄凱も振り下ろそうとした尾をぴたりと止めてしまった。
 武久が声のした方を見ると、そこには巴と同じ歳くらいに見える少年が立っていた。足を怪我しているらしく、引きずって歩いている。ふとその足を見ると、武久は巻かれている布にひどく見覚えがあった。昨日の今日で忘れるわけもない、あれは、
「君はもしや、昨日の仔いたちか?」
 そう言われた少年は、わずかに微笑んだ。武久は、昨日助けたいたちの兄弟に命を狙われ、そして助けたいたちに助けられたというわけだ。
「なんのつもりだ董紹。お前も人間の罠にかかり傷ついたのだろう、その人間を庇うというのか」
 芳泉は苛立ちを隠さぬ声で少年、いや董紹に言う。しかし、対する董紹は怖じ気づいた様子もなく、兄に向かって言った。
「兄さん、確かに僕は人間の罠にかかりました。しかし、僕を助けてくれたのはこの人なのです」
 兄二匹は目を丸くし、武久の方を見た。武久は先と変わらず、芳泉の顔を見つめていた。そして、おもむろに口を開く。
「……我々が何をしていたのか、よく分かりました。しかし、どうか俺に任せてはもらえないだろうか。村の全ての者に言い聞かせ、無闇に命が奪われることは無くすと誓おう」
 真っ直ぐと見つめられそう言われた芳泉は、僅かに躊躇った様子を見せたが、思い切ったように答えた。
「いいだろう、貴殿がそう言うならば、ここは手を引くことにしよう」
 しかし、黄凱の方は納得がいかない様子で言う。
「だめだ兄貴! こいつらはすぐに嘘をつく。今の言葉だって、何処まで本気か分かったもんじゃない!」
 しかし、黄凱の言葉に芳泉は力なく首を横に振った。
「黄凱、それはないだろう。人でありながら私たちの弟を助けてくれたのだ。それにな、私は思い出したのだ。人は一概には計れんと言うことを。我らを襲った心ない猟師のような人間もいれば、彼のようにそんな猟師から助けてくれる人間もいる」
 芳泉にそこまで言われ、黄凱は押し黙ってしまった。
 その様子を見て、芳泉は安堵した表情を見せ、董紹に語りかける。
「董紹、あれを渡してやれ」
 すると、言われた董紹は懐から小さな瓶を取り出し、武久に手渡した。武久はそれが何であるか見当が付かず不思議そうにそれを眺めた。
「これは?」
「それは、先に話した鎌鼬の秘薬よ。それを使えば村の者たちの傷を癒すことができよう。ただし、先の誓いを果たしてくれることと、その薬の存在を口外しないと約束してもらいたい」
 芳泉から説明が入る。同時に出された二つの願いも、武久にはすぐに合点がいった。前者は自分で言ったのだから当然、後者は、万病に効くような薬があると知れれば、再び心ない人間に森を荒らされてしまうと危惧してのことだろう。
 そこまで理解した上で、武久はただ一言、
「承知」
 とだけ答えた。しかし、考えていることは伝わったのだろう、二匹の鎌鼬は最初に出会ったときの人の姿に戻っていた。
「では、これでお別れだ。しかし、再び人間が無為に森を荒らすようなことがあれば、我らは再び姿を現すであろう。願わくば、そのようなことがないことを祈っている。互いの幸せのために」
 人の姿になってもやはり変わらぬ声で芳泉が言った。武久は、この時の彼の言葉を決して忘れないだろう。そして、村の者も忘れてはならない、そう思った。

 三匹は人知れぬ森の奥へ、武久は元来た村へと歩みを進める。日はすっかり落ちてしまい、暗くなった森は歩きづらい。朝から一日中森の奥へと歩いていたのだ、日が昇るまでには村には着かないだろう、武久はそう思っていたのだが、不思議なことに半刻も歩かぬうちに森の出口まで来ていた。
 どうやら、いたちに連れられて歩いた道は、どこかを目指していたわけではなく、森の中をぐるぐる巡っていただけらしい。そのとき、武久はふと頭に過ぎったことを口にした。
「……いたちも人を騙すものなのか?」
 答える者はいない。
 なんにせよ、早く村に戻らねばならぬと薄暗い道を急ぎ足で歩く。

 森から村への入り口に着こうというとき、武久の目に人影が映った。暗がりでよく見えなかったが、近づいてみると果たしてそれは巴だった。
「お帰りなさい、兄さん。あんまり遅いものだから心配しちゃったわ」
「ああ、すまないな。だが、まだやらねばならんことがある。村の者を集めてくれ、一人残らずだ」
 巴にそう頼み、武久は長老の家へ向かった。事の顛末を知らせるためだ。
 挨拶もそこそこに、武久は村の者がどれほど惨いことをしていたのかを長老へ伝えた。長老はひどく驚いたが、今後そのようなことが起きないよう努めると約束してくれた。
 ちょうどその後、巴の呼びかけで集められた村人たちにも、長老にしたのと同様の説明が武久からされた。
 さて、当事者たちはというと、自分たちのやったことに罪悪感はあったのだろう、顔を赤くしたり青くしたりしながら話を聞き、皆まで言われぬうちから名乗り出てきた。
 武久はその者たちに、二度と森を荒らすような真似をしないと誓わせ、他の村の者にもそのようなことをしないように呼びかけた。村人は皆首肯を返し、それに安心した武久は、例の秘薬を都で作られた貴重な薬と称して村の全員に施した。
 その薬は、傷に塗るとたちまち出血が収まり、どういうわけか失血によって悪化していた体調もすぐさま良くなった。そして、村の全員に塗り終わると、まるで計ってあったかのように薬の小瓶は空になった。
 時間が夜であったこともあり、薬を施された者は武久に一言礼を言うと各々の家へと帰っていった。武久は別に執拗に礼を言われたかったわけではなかったし、薬を塗り終わって居座られても邪魔なだけだったので都合が良かった。
「さて、これで全員だな」
 最後の村人、巴に薬を塗りながら武久が言った。巴は自分が一番症状が軽いからと言って自ら他の者に先を譲ったのだ。そして、出血の止まった傷を袖の内にしまい、武久に言った。
「ありがとう、兄さん。今日は朝しか食べてないんじゃない? 家に夕餉の用意がしてあるから、お父さんと三人で食べましょう」
 武久は我が事ながらすっかり忘れていたが、巴に言われて思い出したように腹が減ってきた。
「そうだったな。では、帰るとしようか」
 そう言って、二人は家に戻った。その日の佐野家は、久しぶりに一家で食事をすることができたのだった。それはなんの変哲もない、しかしこの上なく幸せな時間であったという。

 

* * *

 

 翌日。昨日ほどではないが、日が昇り始めた早朝、武久は街へ戻る支度をして村の入り口にいた。父は早くから森へ行っている。今まで休んでいた分まで働くとのことだ。もとより自分たちが森によって生かされていることを知っている人だから、間違いなど起ころう筈もない。
「ではな。今度は、職務ではなく里帰りで来させて貰う。それまで、元気でな」
 武久は微笑みながら、見送りに来た巴に言った。
「ええ、待ってるわ。今度はちゃんと、文を送ってからにしてね」
 そんな会話をしてから、武久は街に向かって歩き始めた。街に戻り、事の顛末を上官に伝えねばならない。あの人は何処まで話を信用してくれるだろうか、そんなことを考えながら、武久は自らの務める役所へと急ぐ。

 その時、森から一陣の風が吹いた。村の近くの大きな木から、三匹の獣も彼を見送っていたのだが、彼はそれを知る由もない。

 

 

 

 〜あとがき〜
 動物に危害を加えるならば、腕の一本噛み千切られても文句は言えない。因果応報、自業自得というものだ。
 というわけでどうも、蒼耀石です。この度は私の拙著を最後まで読んでいただきありがとうございます。
 例年は戦闘の描写がある、いわゆるバトル系の小説を書いていたのですが、今回は「自然と共に生きる」そして「人と動物の在り方」というのを基盤とした怪異ものを書いてみました。
 作中にある鎌鼬の伝承ですが、あれは実際に存在するもので、飛騨(現在の岐阜県北部)の一部には三人連れの悪神であるという伝承があるそうです。ちなみに、カマイタチという現象自体は、様々な説があるものの、現在でも正確な原因が分かっていないそうです。恐いですね、まあ、当然ながら現実には作中みたいな事は起こりませんが。
 人間は自然がなければ生きられません。しかし、生活の中にあまりに普通にありすぎるので、その大切さを忘れてしまいがちです。それ以外の日常生活においてもそうで、大切なものが本当に大切だったと気が付くのは、大抵それを失うか失いかけたときです。作り話の中だけの話のようにも思えますが、案外普段の生活の中での方がそういうことは多いのではないでしょうか。
 側にあるもののありがたみを知り、それに感謝しながら生きる。そんな生き方をしたいものです。
 それでは。またいずれ、お会いできる日を祈って。(2010/08/24)
 
 
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