雪に埋もれた街。冬にこの街に来れば、誰しもが最初にそう思うだろう。
 冬の夜には必ず吹雪が起こり、次の朝には再び雪が積もる。街に住む者には見慣れた光景だが、旅行者でもあろうものならその雪景色に驚くことだろう。もっとも、都会とはかけ離れた辺境の地にあるこの街に、旅行者など滅多に来ないのだが。
 しかし、滅多に人の訪れないこの街の門に、一人の青年の姿があった。
「ここが雪の街ネーヴェか」
 青年は名をハロルド・エッシェンバッハという。都市部ではそれなりに知名度のある紀行文作家である。
 全国各地を歩き回り、そこでの出来事や体験を書き記すというのが紀行文の主流なのだが、彼が書くものはそれだけではない。地方の隠れた名所を書き記し、寒村の観光地化を促すものや、逆に観光的な要素を記さない学術的なものなど多岐に渡る。
 ただし、彼がこの街に来たのは、今挙げたような紀行文を書くためではない。彼の個人的な興味、聖骸と呼ばれるものを見るためである。
 聖骸とは、古の時代のロストテクノロジーの物品とも、未来からもたらされたオーバーテクノロジーの物品とも言われるが、実際にはほとんど詳細が分かっていない。その中で、使用法や量産の方法が見つかったごく僅かなものが、人々の生活を豊かにするものであったために、多くの人は神からの贈り物であると認識している。
 彼の知り合いに、この聖骸の調査をしている考古学者がいるのだが、その人物によると、このネーヴェに比較的最近使用された聖骸があるという。

 ハロルドは、この街にある聖骸を見るため、手始めに宿へ向かった。どんな街でも、宿というのは通常、旅行者に親切なもので、何かを尋ねるにしても最もよい手段である。加えて、数日滞在する場合にはそのまま寝る場所も確保することができる。
 しかし、この街には宿と呼べるものはなかった。街の人に聞いてみると、旅行者など滅多に来ないために、宿を営む者はいないらしい。
 その代わり、この街唯一の診療所が旅行者を受け入れているという。入院が必要な患者のために多くの部屋が用意された屋敷であるが、入院患者はそこまで多くないため、もしも旅行者が来たときには部屋を貸し出せるとのことだ。
 ハロルドが話を聞いた街の人はなぜかやけに彼のことをありがたそうに見ていたが、直接聞くのも失礼と思い、お礼を言ってその診療所へと向かった。
 街の中心部に大きな建物があり、その扉には『アインハルト診療所』という札が掛けてあった。
「ごめんください」
「はい、どうされました? あら、旅行の方ですか?」
 ハロルドが診療所に入ると、看護士というには幼さの残る少女が迎えてくれた。歳は十五、六といったところか。薄く青みがかった銀の髪は腰まで伸びており、その肌は透き通るように白い。白を基調とした服装と相まって、まるでこの街に降る雪に染まったかのような容姿だった。
「お泊まりですよね?」
 少女は柔らかな口調でそう言うと、ハロルドを中へ通した。外は雪に覆われていても、屋内は暖かい。これは、“明けの焔”という聖骸によるものだ。“明けの焔”はひとつ置くだけでその建物全体を温めることのできる聖骸で、聖骸の調査が始まってすぐに解明された物品である。今では、どこの家や施設にもある暖房具だ。
「ええ、お願いします」
 ハロルドがそういうと、少女は朗らかに笑いながら、
「はい、ありがとうございます。では、こちらにお名前をお願いします」
 と言って、宿泊帳簿を差し出した。
 ハロルドが帳簿に名前を書こうとすると、その帳簿にすでに一人、名前が記されており、そこには『ルドルフ・ハルトマン』と書かれていた。雪に覆われる冬のネーヴェに好きこのんでくる者は普通いない。そもそも、この街に人が来るというだけでも珍しい。
「そうそう、今日はもう一人、泊まってくださる方がいるんですよ」
 ハロルドの疑問を知ってか知らずか、少女はそう言って、奥を見た。そこには、この診療所の待合室なのだろうか、広めのスペースにいくつかのテーブルがあった。少女の視線の先に目をやると、そこには一人の男が座っていた。
 褐色のトレンチコートを着た、二十代くらいの長身の男。ハロルドよりも少し年上に見えるため、二十代後半だろうか。男にしては長めの黒髪で、端整な顔立ちをしている。その目にはどこか冷たさがあり、この男も別の意味で外の雪を表しているようだった。
「あの方はハルトマンさん。考古学者さんなんですって」
 そう言いながら、少女はハロルドが宿泊帳簿を書き終えたのを見て、その男の座るテーブルに向かって行った。
「考古学者?」
 ハロルドがそう呟いたが、少女には聞こえなかったようだ。
 考古学者といえば、一般的には遺物や遺跡などの研究を通し、人類の活動とその変化を研究するものである。しかし、過去のものか未来のものか不鮮明な聖骸について研究している者も考古学者と称する場合がある。
 ハロルドは、このハルトマンという男は十中八九後者だろうという当たりをつけた。この街にはあの聖骸はあっても、歴史的価値のある遺跡があるという話は聞いていない。もっとも、本当にただの旅行者だという場合もあるのだが、可能性は薄いだろう。
 ハロルドは少女の後についていき、その考古学者の正面にある椅子に座った。
「ハルトマンさん、こちらはハロルド・エッシェンバッハさん。ハロルドさんって確か、作家さんでしたよね? 新しい紀行文の題材に、何かお話ができるんじゃないですか?」
 少女がハルトマンにそう言った。どうやら、この辺境の街であっても、ハロルドの本は知られているようである。
「はじめまして、ハルトマンさん。僕はハロルド・エッシェンバッハ。彼女が言うように、紀行文を書いています」
 ハロルドがそう言うと、正面に座るハルトマンの目が彼に向けられた。
「俺はルドルフ・ハルトマン。しがない考古学者だ」
 自己紹介が済んだところで、いきなり話す話題もない。微妙な空気が流れ始めたところで、少女が口を開いた。
「そういえば、お二人には私の名前も言っていませんでしたね。私はエリカ・アインハルトといいます」
「アインハルト? じゃあ、君がここの先生なのかい?」
 ハロルドがそう聞くと、エリカは笑いながら答える。
「いえ、ここの医師はクラウス・アインハルト。私の父です」
「……それはそうだろうな」
 エリカの言葉を聞いて、ハルトマンが小声でそう呟いた。
「で、ですよね」
 その言葉にハロルドも同調し、三人は三者三様に笑った。
 その時、階段の方から三人のものとは別の声が聞こえてきた。
「おや、患者さんですか?」
 声のする方を見ると、二階から一人の男が降りてきた。腰まである藍色の髪を束ね、いかにも医者らしい格好をした三十代くらいの男である。
「あ、お父さん。いえ、こちらの方々は旅行で来られたんですよ」
 エリカがお父さんと呼ぶこの人物が、診療所の医師クラウスである。エリカが二人の旅行者について説明すると、クラウスは頷き、
「そうでしたか。申し遅れました、私はクラウス・アインハルト。この子から聞いているかも知れませんが、この診療所で医師をしている者です」
 穏和な微笑を浮かべてそう言った。
「この街に人が来るのは珍しいことです。お二人とも、一体どのような御用向きで?」
 続けてクラウスがそう聞くと、ハロルドは返答に困った。確かに、自分の目的のものに関して聞きに来たのだから、この質問は願ってもないものである。しかし、聖骸について医者に聞くというのも奇妙だと思ったのだ。
 すると、ハロルドではなくハルトマンが口を開いた。
「この街には“女神の福音”と呼ばれる聖骸があると聞いて来た。クラウス先生、何かご存じのことはないか?」
 ハルトマンの言葉を聞いて、クラウスは僅かに表情を歪めたが、それに気がつく者はいない。
「あれのことですか……さて、私も詳しいことは分かりかねますが……」
 クラウスがそこまで言うと、診療所の扉が開いた。
「失礼する。先生、彼らが旅の者か?」
 入ってきたのは四十代くらいの男だった。ハロルドが話を聞いた街の人よりもいくらかいい身なりをしている。その男を見て、クラウスが溜息をつきながら言う。
「スレイドさん。お耳が速いですね」
「この街の現状は先生もご存じだろう。そして、その風習も」
 スレイドと呼ばれた男はそう答えた。
「エリカ、お二人の部屋のご用意をしてください」
「はい、お父さん」
 クラウスに言われ、エリカは二階へ上がっていった。それを見送ってから、クラウスは再び口を開いた。
「ハロルドさん、ハルトマンさん。この方はスレイドさんといって、この街の町長さんです」
「スレイドという。お見知りおきを」
 ハロルドとハルトマンも、この短時間で何度かした自己紹介を再びこのスレイドにした。そして、それに続けてハルトマンが尋ねた。
「で、その町長が俺たちのような旅行者に何の用だ?」
「実は、君たちに聞いてもらいたい話があるのだ」
「……伺いましょう」
 ハルトマンが返答しないのを見て、ハロルドがそう答えると、スレイドは頷いて話し始めた。
「この街では今、二つの異変が起こっている。ひとつは、子供だけがかかる原因不明の流行病。この街には子供が十人いるのだが、その全員が罹っている」
「それは、先生が治療できるのでは?」
 ハロルドがクラウスを見ながらそう言うと、クラウスは残念そうに首を横に振った。
「治療法が見つかっていないのです。十年に一度くらいの周期で発生する流行病なのですが……」
 クラウスが話し始めると、スレイドがひとつ咳払いをして話を続けた。
「本題は二つ目の異変だ。現在、その十人の子供のうち、二人が行方不明になっているのだ」
 スレイドの言葉を受けて、その場にしばらく沈黙が訪れた。やがて、ハロルドが焦って言った。
「そんなことを僕たちに話してどうしようというのです。まさか、僕たちがその行方不明と関係があるとでも!?」
「いや、その逆だ」
 スレイドは落ち着けと言うようにに両手を前に出し、話を続けた。
「この街では、外から来た者、すなわち旅の者が幸福をもたらすという風習があるのだ。そこで、勝手な話だとは思うが、君たちにこの話を聞いておいてもらいたかったのだ。十年前にも、旅の者に世話になったことだしな」
「……十年前?」
 ハロルドの呟きには答えず、スレイドは踵を返した。
「特別、何かをして欲しいわけではないが、ここに滞在している間は気に留めておいて欲しい」
 そう言い残し、スレイドは診療所を出て行った。
「先生、さっきの十年前というのは?」
 ハロルドが尋ねると、クラウスは表情を陰らせて話し始めた。
「……今から十年前、時期は今と同じ冬のことでした。当時、この街には町長以上に力を持つデマンティウス伯という大地主がいました。デマンティウス伯は街の外れにある古城に住んでいました。城と言っても、ほとんど塔のような外見ですが」
 話が逸れましたね、と言って続ける。
「十年前、街の子供たちが、今のように流行病に罹りました。そして、今と同じように子供が消える事件が起きました。その時の犯人はデマンティウス伯だったのですが、それが発覚したのは当時町に来ていた旅行者の働きによるものらしいです。デマンティウス伯が何のために子供たちを連れ去ったのかは分かりません。いずれにせよ、その旅行者と街の若い衆がデマンティウス伯を淘汰し、子供たちを救い出しました。古城の強襲に参加した者の話では、デマンティウス伯を討ち取ったまさにその時、古城の最上階にある巨大な鐘の音が鳴り響いたといいます」
「……鐘の音?」
 ハロルドがそう呟くと、クラウスはひとつ頷いて、
「その鐘こそ、先程ハルトマンさんの言った“女神の福音”なのです。正確に聖骸であるかどうかは分かりませんが、その鐘の音の後に救い出された子供たちは、全員例外なく流行病が治っていたのです。これを、悪人デマンティウスを討ち取った街の者へ贈られた女神からの報償であると考え、この街の者たちが“女神の福音”と呼ぶようになったのです」
 そう言って目を伏せた。
「なるほどな。つまり、俺が探しに来たものは得体の知れない古い鐘ということか」
 ハルトマンがそう言うと、クラウスは、
「そうなのかもしれません。その真偽は分かりませんが、とにかく私たちは行方知れずとなった子供たちを見つけなければなりません。街の人の中には、デマンティウス伯の呪いという者までいるのです。……お部屋は後でエリカに案内させます。それでは、ごゆっくり」
 と言い残して自室に戻っていった。

「ハルトマンさん、どう思います?」
 二人だけになった談話室で、ハロルドが言った。
「どう、とは?」
 ハルトマンも相槌を打つ。
「子供たちが行方不明になっていることについてです。犯人が誰であれ、子供を監禁しておけるような場所は限られるのではないでしょうか?」
「……子供ならば脅すことも難しくないだろう。それに、俺は人攫いを暴くためにここに来たのではない。わざわざ付き合ってやる必要もなかろう」
 平静にそう答えるハルトマンに、ハロルドは苛立ちを覚えた。様々な街を渡り歩く職業柄、行った先の街で子供たちとふれ合うことも多い。そのため、子供のことが他人事と割り切れなかったのである。
「……無関係だから放っておくっていうんですか?」
「推理がしたいなら自由にすればいい。だが、人を巻き込むな」
 そう言い残すと、ハルトマンはエリカに案内され、さっさと部屋に行ってしまった。
「…………」
 一人になったハロルドは、尚も考えていた。そして、あることに思い当たっていた。
 犯人が誰であるかは不明だが、子供を監禁しているのは例の古城ではないか、と。話に聞くだけでは詳しい内装などは分からないが、過去に何人もの子供を監禁しておくことができたのだから、今回も利用されている可能性はあるだろう。
 そんなことを考えていると、ハルトマンの案内を終えたエリカが降りてきた。
「お待たせしました。ハロルドさん、お部屋へご案内しますね」
「え……ああ、お願いします」
 意識が推理に行ってしまっていたため、声を掛けられて少し驚いたが、ハロルドもエリカに案内され自分が与えられた部屋に入った。
「何か必要な物があったら、遠慮なく言ってくださいね。では、おやすみなさい」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
 明日は、古城を見に行ってみよう。聖骸については別にして、子供たちの失踪について何か分かるかも知れない。そう思うハロルドだった。

 今日もまた、この夢。冬の日には、どうしてもこの夢を見てしまう。
 目の前で、父が殺される夢。ただ眺めることしかできない自分が、悔しくて、悲しくて。
 でも、あの時、あの人は言ってくれた。
 いつの日か、父の真実を人々に知らせることができる、と。
 それを信じて、今日もまた、目を覚ます。

 翌日。診療所の四人は慌ただしく目覚めることになった。理由は、早朝にスレイドが来たためである。彼によると、今朝は子供が二人失踪しているというのだ。
 ハロルドとクラウスが急ぎ外を見た。昨日の夜に降った雪のため、町中に付いた足跡は消えていた。これでは、子供がどこへ行ったのかも分からない。
「とにかく、街の若い者を集めて子供たちを探させている。一日中、街が慌ただしいことになるだろうが、我慢してくれ」
 そう言い残して、スレイドは早々に診療所を後にした。
「また子供たちが……一体どうなってしまうのでしょう」
 クラウスが不安そうに言うと、ハロルドは外套が着て出てきて言った。
「僕も調べてみようと思います」
「どちらへ?」
「昨日の古城へ。何か掴めるかも知れない」
 ハロルドがそう答えると、クラウスはなお不安そうに、
「そう、ですか……しかし、あの古城に渡るための橋は十年前からまったく手入れをされていませんから、十分に気をつけてください」
 と言った。
「はい、ありがとうございます」
 ハロルドは笑顔でそう答えると、クラウスにもらった地図を頼りに、街の外れにそびえる古城へと向かった。

 話に聞いた古城は、まさに塔という表現が適していおり、遠くから見ても不気味な様相を呈していた。街の外れにあるためか、街からここまでの道に木々が鬱蒼と生えているため、視界が開けるまでだいぶ歩くことになった。
 城と街との間に掛けられていた橋は、十年という歳月の中で完全に壊れてしまったようだ。幅が広く、流れも速い河、しかも冬の寒さとくれば、河を泳いで渡るというのは現実的ではない。子供を抱えているとすれば尚更だ。 
「これじゃ城の中までは調べられないな」
 しばらく橋があった周辺や、川辺などを調べてみたが、城側に渡れるような仕掛けは一切見つからなかった。
 残念に思うのと同時に、ハロルドは自分の昨日の推理に確信を持ち始めた。もし、犯人しか知り得ないような、城側に渡る手段があったならば、子供たちを隠しておくのにこれ以上の場所はない。
「やっぱり、城について調べないと駄目なのかな」
 気が付けば、日がだいぶ傾いている。城が一定の大きさで見える距離までしか調べなかったのだが、それでも歩いて調べるだけで一日を要するあたり、あの城の大きさを窺い知れるというものである。
 完全に日が落ちる前に診療所に戻ろうと街に向かって歩き出した。すると、彼がいる場所から少し離れた所にある開けた場所に、ハルトマンが立っていた。昨日見たときと同じ格好で、古城をまっすぐ見据えていた。
 ハロルドは、あの人、口ではああいっていたのに、やっぱり気になるんだな、などということを考えながらも、話しかけることはせずに診療所へと向かった。話しかけても、昨日と同じ問答しかできないような気がしたからである。

 結局、ハロルドが診療所に着いたのはすっかり日が落ちてからだった。
「おかえりなさい、ハロルドさん。寒かったでしょう?」
「ただいま戻りました」
 中に入ると、昨日と同じようにエリカが迎えてくれた。
 待合室で用意してもらった夕食をとり、その後しばらくエリカと話をした。エリカがハロルドの著書を読んでいたため、彼が今までに行った街や村についてなど、話題には事欠かなかった。
「すごいですね。まだお若いのに、本当にいろいろなところに行っているんですね」
「でも、趣味が長じたものですからね」
 そう言って、淹れてもらった紅茶を啜る。
「私はこの街から出たことがありませんから、他の場所のお話を聞けて楽しかったです。あら、もうこんな時間ですね。私はこれで失礼しますね」
 そう言うと、エリカは席を立った。
「では、僕も部屋に戻ります。おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」
 ハロルドが部屋に戻ろうと二階に上がると、階段のすぐ近くにあるハルトマンの部屋の扉が少し開いていた。室内から光が漏れているところをみると、中に人はいるのだろう。
 どうしたのだろうと扉に近付くと、中から二人分の声が聞こえてきた。
「手筈通りにいっていますか?」
「問題ない。残るはあと三人、明日の夕刻に行う」
「彼には気取られていませんか?」
「あの旅行者か。少々頭は切れるようだが、計画に支障をきたすほどではない」
「では、引き続きお願いします」
 中から聞こえてきたのは、ハルトマンとクラウスの声だった。しかも、話している内容が不穏だ。
「まさか……あの人と先生が犯人だったなんて……」
 ハロルドが思わず声を漏らすと、
「誰だ」
 ハルトマンの短く鋭い声が室外に発せられた。
「……気のせいか」
 ハルトマンが扉を開いたが、そこには誰もいない。
 パタン、と扉が閉まる音を聞いて、ハロルドは安堵に息を漏らした。
「あ、危なかった……階段のすぐ近くで助かった」
 見つかると思ったハロルドは、間一髪身を隠していた。もし、あの部屋が通路の真ん中にあったら、絶対に見つかっていただろう。
「先生が犯人だとすると、迂闊に話を聞けないな……明日は町長さんの所に行ってみるか」
 そう呟き、部屋に戻ったところで、ハロルドはさっきの会話に違和感を覚えた。
 ――あと三人。あの男は、確かにそう言った。この街の子供は十人。この街に来たときには二人の子供が消えており、今朝は新たに二人が消えたという。つまり、残った子供は六人のはず。しかし、あの男が言ったのはあと三人。つまり、それが示すのは。
「……今日だけで三人連れ去ったって事か……くそっ、一体何を企んでいるんだ?」
 すぐに詰め寄って子供たちを解放させたかったが、人質に取られてしまえば元も子もない。何をするにしても、町長と話をしなければ。そう思いながら、ハロルドは眠りについた。

 今日もまた、この夢。あの日から、片時も忘れたことはない。
 救えぬ命はない、そう思っていた。だが、それは傲慢だった。
 それに気がついたときには、もう取り返しのつかないところまで来ていた。
 だが、あの人は言った。二度と同じ過ちは繰り返させない、と。
 それを信じて、今日もまた、目を覚ます。

 次の日の朝も、昨日と同じような始まりだった。スレイドが早朝に診療所を訪れ、三人の子供が消えたと言って、足早に帰って行った。
 エリカもいるため、その場で昨日の話をするわけにもいかず、ハロルドは早々に朝食を済ませて診療所を出た。あの二人を監視して、子供を連れ去ろうとしたところを取り押さえてもいいかと思ったが、やはり子供を人質に取られてしまえば意味がないため、スレイドに真実を伝えることを優先したのだ。
 スレイドの家は町長の家ということもあり、診療所ほどではないものの大きめの屋敷だった。
「ごめんください」
 そう言って呼び鈴を鳴らすと、スレイドが直接出迎えた。
「ハロルドといったか。どうされた?」
 スレイドは、どこか焦っているようにそう言った。
「実は、お話ししておきたいことが」

 スレイドの執務室に通されたハロルドは、彼に昨日の出来事を話した。しかし、それを聞いたスレイドの顔は依然暗いままだった。
「どうしたんです? 今回の犯人はあの二人なんです」
「確かに、君が言っていることは真実なのかも知れない。しかし、君の言っていることが真実であると、一体どうやって証明できるのだ?」
 そう言われて、ハロルドははっとした。子供たちのことばかり考えていて失念していた。確かに、証拠など何もないのだ。
「君の話が真実だとしても、だ。確たる証拠がないままに詰め寄ったとしても、それこそ君が危惧するような、子供を人質に取られるという事態になりかねん」
「では、子供たちを見つけることができれば、証拠になりますよね」
 ハロルドがそう言うと、スレイドは目を見開いた。
「確かにそれは動かぬ証拠となるだろう。しかし、子供たちは一体どこにいるというのだ?」
「確証はありませんが、あの城にいるのではないかと思います」
 そう言って、ハロルドは自分の見解を述べた。
「なるほどな。確かに、私たちもあの城の中までは調べていない」
「問題は、どうやって城側に渡るかです。僕が昨日調べた限りでは、落ちた橋以外に城に渡れそうな場所はありませんでした」
 ハロルドの言葉を聴いてしばし黙考したあと、スレイドは言った。
「いや、渡る手段がないというのは分からないぞ」
「どういうことですか?」
「もし、アインハルト医師が犯人であるならば、城に渡る方法を知っているのかもしれん」
 スレイドは窓の外を見ながら続ける。その先には、城へと続く森が広がっている。
「彼は、十年前までデマンティウス伯の主治医を務めていた。十年前の事件でデマンティウス伯が討たれたときには城におらず、その後彼の死を知って、娘だという六歳の子どもを連れてこの街に診療所を開いた。基本的に城暮らしだったのだ、デマンティウス伯から外部に知られていない通路を知らされていた可能性もある」
「デマンティウス伯は、どこか体が悪かったのですか?」
 ハロルドがそう尋ねると、スレイドは視線をハロルドに戻して答えた。
「心臓がね。十年前の事件が起きた当時はもう余命幾許もない状態だったらしい」
「そうですか……そうだ、十年前の事件について、詳しく教えていただけますか?」
 ハロルドの問いに、スレイドは表情を曇らせた。
「アインハルト医師から話を聞いていないのか?」
「伺いました。しかし、当事者であるあなたにも伺いたい」
 スレイドは小さくため息をつき、いいだろう、と言って、十年前の事件について語り始めた。結局、クラウスから聞かされたものと内容は同じだった。

 朝から話をして、終えたのは夕方だった。診療所へ戻るハロルドに、スレイドが言う。
「今夜から、診療所に見張りを何人かつけておく。子供たちが姿を消したのはいずれも夜のことだった。もし、彼らが動けば動向をつかめるだろう。君の方も、不穏な動きがあれば知らせてくれ」
「わかりました。では、失礼します」
 スレイドの家を出ると、ちょうどエリカが通りかかった。
「あら、ハロルドさん? 町長さんに何か御用だったんですか?」
 ハロルドに近寄ってきて、エリカがそう言った。
「ええ、事件について調べたくてお話を聞いていたんです」
 ふと見ると、エリカの手には、数本の花があった。
「それは?」
「これはアマツキという花です。これは冬に雪の下から咲いてくる花で、薬の材料になるんですよ」
 そう言って、エリカがその花を一本差し出して見せた。雪の降る真冬に咲いたとは思えないほど、アマツキの花は生き生きとしていた。コスモスほどの大きさの花で、花びらは太陽を思わせるヒマワリのような黄色だった。
「ハロルドさんはこれからお戻りですか?」
「そうですね。今日はもう日が落ちそうですし、続きは明日にします」
 事実、これから何をすることもなかった。相手がボロを出すのを待てばいい。
「では、私もこれから戻るところですから、一緒に行きましょう」
 エリカは笑顔でそう言い、診療所の方へと歩き出した。

 その日の夜、ハロルドは早々に部屋に戻っていた。自分が何処かにいるせいで、あの二人の動きを邪魔するわけにはいかなかったからだ。
「さて、どう動くか……」
 特にすることもなく、ベッドの上で横になっていると、部屋の扉をノックする音がした。
「ハロルドさん、まだ、起きていらっしゃいますか?」
 声の主はエリカだった。
「どうしました?」
「実は、ちょっとお話がありまして……今、よろしいですか?」
 昨日のように夕食の後に話をするのではなく、わざわざ部屋に来たということは、誰かに聞かれるわけにはいかない話なのだろう。もしかしたら、自分の父のことに気が付いているとか……?
 いずれにせよ、部屋の前に立たせたままにしておくわけにもいかない。扉を開き、どうぞ、と言うと、エリカは、失礼します、と言って入ってきた。
「話というのは……?」
 椅子に掛けさせそう聞くと、エリカは神妙な顔で口を開いた。
「ハロルドさんは、事件の話を聞くために町長さんの家に行っていたんですよね?」
「そうです」
「では、十年前の事件のことも……聞いたんですよね?」
「……そうですね」
 ハロルドがそう答えると、エリカはしばらく目を伏せ、やがて何かを決心したように目を開いて話し始めた。
「では、話しておきます。十年前の事件を引き起こした犯人、デマンティウス伯は私の父です」
「……なんですって?」
 ハロルドは耳を疑った。話が突拍子もなさ過ぎる。
「私の本当の名前は、エリカ・デマンティウス。あの事件の犯人の娘にして、今回の事件の犯人」
「…………!!」
 いよいよ話が分からなくなった。この少女が犯人だというなら、昨日のあの二人の会話はいったい何だったのか。いや、それ以前に。
「では、あなたとアインハルト先生は、一体どういう関係なんです? 親子と偽っていた、と?」
「先生がデマンティウス伯の主治医だったことはお聞きになりましたね? あの方は十年前、まだ幼かった私を城から匿ってくれました。その後、父を失った私の父親であると名乗り、医者としてこの街にとけ込みました」
 ハロルドが、そんな馬鹿な、と呟くと、エリカは寂しげな表情を浮かべた。
「何のためにこの街に残ったのです」
「父の真実をこの街の人に伝えるため。十年前も、そして今回も、私たちは目的を果たすために子供たちを連れ出した」
 エリカはそう言って立ち上がると、部屋を出て行こうとした。立ち去ろうとする背にハロルドは尋ねた。
「目的とは一体なんです? 大体、なぜ私にこんな事を話したのです」
「目的は言えません。あなたに話したのは……なぜでしょう、自分でもよくわかりません」
 曖昧な返答を残して、エリカは部屋を出て行った。
 分からない。一体どうなっているというのか……。その疑問に答える者はなく、いつの間にか眠りに落ちていた。

 十年という歳月を経て、再びこの地に降り立った。
 あれほどの覚悟を持つ者が、今までにいただろうか。
 彼からは娘を頼むと言われたが、それだけでは足りない。
 この夢を、ネーヴェという街が見たままの悪夢を終えるために。
 さあ、目覚めの鐘を鳴らしに行こう。

 次の日の早朝、ハロルドが目を覚ますと、診療所には誰もいなかった。待合室に、ひとり分の朝食が用意されているだけで、三人とも姿がない。
「どうなっているんだ……」
 ハロルドがそう呟くと、診療所の扉が開いた。
「先生と娘、それにあの旅人はいるか」
 入ってきたのはスレイドだった。昨日までのように慌ただしくではなく、落ち着き払っている。
「情報提供に感謝する。おかげで犯人の自白を取ることができた」
「自白? あの三人を探していて、誰から自白を取るというんです」
 ハロルドがそう言うと、スレイドは僅かに笑って答えた。
「言っただろう。昨日の夜、ここに何人か張り込ませた。結果、君が昨日、エリカから受けた自白を聞くことができたというわけだ」
二階で話をしていたのに、どうやって聞いたんだという疑問はあったが、今はそれどころではない。
「残念ながら残った三人の子供の連れ去りは防げなかったが、あの三人を一度に捕らえられれば問題はない」
「しかし、もう僕以外は誰もいませんよ」
「なに? ……となると、君が言うように城へ向かったのだろう。昨日の話から察するに、十人の子供を使って何かするつもりなのだろう」
 スレイドは表に控えていた街の若者に指示を出し、診療所を出て行こうとした。
「そうだ、君も来てくれ」
 言われなくとも、と思いながら、ハロルドは彼らについていった。
「町長。急ぎ城へ向かい、奴らを捕らえましょう」
「そうです。急がなければ、子供たちが危ない」
 数人の若者は口々にそう言い、スレイドもそれに答えた。
「うむ。急ぐべきだな」
 その時、ハロルドはある策を思いついた。
「待ってください」
「どうした?」

 

 

 城の最上階。“女神の福音”と呼ばれる鐘の前に、二人の男の姿があった。
「首尾は?」
 そう尋ねたのはハルトマンだ。クラウスは、自信がありそうな顔をして答えた。
「問題ありません。子供たちは、所定の場所に」
「そうか」
 ハルトマンは短く答えて、眼下の街を見下ろした。
「上手くいくでしょうか」
 僅かに不安を過ぎらせた顔でクラウスが言うと、ハルトマンは鼻で笑って答えた。
「事実を目の当たりにすれば、信じざるを得ないだろう。それに、俺たちも失敗するわけにはいかない。十年も準備をしてきたのだからな」
「そう……ですね」
 その時、街の方から誰かがやってくるのが見えた。
「あの旅行者か」
「どうします?」
「俺が相手をする」
 ハルトマンはそう言うと、纏ったコートを翻し、城の暗闇に消えた。

 

 

 森を抜けると、そこには昨日と違う光景が広がっていた。河の水量が目減りしているのだ。しかも、目に見えるギリギリの位置に、透明な橋がある。どうやら、水量を調整することでこの橋を渡り城へ行っていたらしい。これではいくら探しても見つかるわけがない。
「ハロルドといったか。こんな所に何のようだ」
 対岸には、ハルトマンの姿があった。
「あなたも関係していたとは驚きです」
 ハロルドがそう言うと、嘲笑うようにハルトマンは言った。
「俺はお前が一人でここに来たことの方が驚きだがな」
「なぜこんな事を?」
 尚も平静に話すハロルドを見て、ハルトマンはつまらん、とでも言いたそうな顔をする。
「女神の福音をならすためだ」
「どういうことです?」
「女神の福音を鳴らすには、子供たちが必要なのだ。終わったら返してやる。もっとも、いなくなったときと同じ姿では返せないがな」
 さも当然とでもいう風に、ハルトマンはそう言った。
「子供たちはどこにいるんです」
「城の地下にいる。だが、それを聞いてどうする。お前一人で、俺を止められるとでも思っているのか」
 再び嘲笑うように言うハルトマンに、ハロルドは微笑で返した。
「……何がおかしい」
「本当に一人だとでも?」
 次の瞬間、森から十数人の若者が現れた。スレイドを先頭とし、皆獣よけの武器を持っている。それを見てもなお、涼しい顔をしたまま、ハルトマンは言った。
「ほう、多勢に無勢という奴か」
「投降するならそれでよし、しないならば武力行使だ」
 そう言うスレイドに対して、ハルトマンは口の端を上げて言った。
「どうせ死にゆく命。有効に使ってやらずにどうする」
 あたりが静寂に包まれた。この時、誰しもが思った。この男は、何を言っているのか、と。
「それに、もう遅い。俺を油断させて子供たちの居場所を吐かせたのだろうが……」
 次の瞬間、城の最上階にある鐘が鳴り響いた。そして、ハロルドたちは戦慄した。鐘が鳴るということは、子供たちに用がなくなるということ。それが示すものは……。
「……貴様ぁ!!」
 考えるより先に身体が動いていた。ハロルドがハルトマンに殴りかかったが、あっさりと避けられ空を切った。刹那、ハルトマンに腕をつかまれ、地面にたたきつけられた。後ろでは、数人の若者が膝をついている。
「もう終わったのだ。争う必要もない」
「なにを言っている? 何が終わったというのだ」
 町長としてか、スレイドが聞く。すると、城の扉が開いた。そこから現れたのは、クラウスとエリカ、そしていなくなった子供たちだった。
「……え? どういうことだ?」
 誰となく疑問の声が上がる。
「教えてやる。最後までよく聞いておけ」
そして、ハルトマンは事の真相を語った。

 女神の福音の力は、奇跡を起こすこと。しかし、その発動には条件がある。人の不幸や怒り、哀しみなどの負の感情を受けたとき、それを埋め合わせるための奇跡を起こすのだ。
 ただし、負の感情そのものを埋める奇跡は起きない。つまり、子供の病を嘆いたとしても、病を治す奇跡は起こらないのだ。
 彼らが行なった誘拐は、街の人々に子供の病ではなく、子供の安否という不安、誰が犯人かわからぬ猜疑心を誘発させるためのものだった。結果、たった今福音は鳴り響き、子供たちの病は治った。ハルトマンが言うように、そのままの姿では帰ってこなかったわけだ。
 十年前の事件もまったく同じ理由からである。だが、十年前には流行病を治療する術がなく、この真相を街の人に告げるわけにはいかなかった。そこで、心臓の病で先がないことを悟ったデマンティウス伯は、己の命と引き替えに街の人の怒りを一手に担い、福音を鳴らして果てたのだ。

「なんということだ……では、私たちは感謝すべき相手に剣を向けたということか」
「それこそ、伯の目論み通りだったわけだがな」
 スレイドの呟きにハルトマンが答えた。
「しかし、私たちにそれを知らせてしまってよかったのか? 子供たちが元気な姿で戻ってきた以上、話を信じないわけにはいかないが、その話によれば十年後もこの鐘を鳴らさなければならないのでは?」
「その心配はもっともだ。だが、十年間何もしていなかったわけではない」
 そう言って、ハルトマンは一輪の花を取り出した。
「それは、アマツキの花……」
 ハルトマンに叩き付けられた状態からやっと立ち上がることができたハロルドが呟いた。
「そう。十年のうちに、俺は方々を渡り歩き、病を治すための薬を探し求めた。その末に、ここから遠く離れたある街で、この花を使うことで薬を作ることができると分かった」
 その言葉に、スレイドが疑問を口にする。
「では、今回の事件は起こさなくてもよかったのではないか?」
「そうはいかん。一つの花からとれる薬の成分は少ない。十人分の薬を作るには、少なくとも五年分は花を集めなければならない」
 ハルトマンはそう答え、続けて、
「それに、今回の件がなければ、彼女の父の真実を信じることもなかっただろう」
 と言って、エリカの方を見た。エリカは両の目に涙を湛え、どこか寂しげに笑っていた。
「今後は花を集めておくことができますから、もう大丈夫です」
 エリカの笑顔を見ながら、慈しむようにクラウスがそう言った。
「いずれにせよ、礼を言わせてくれ。今日は子供たちの快気祝をしよう。四人も是非来てくれ」
 スレイドはそう言って、若者たちと一緒に子供を連れて街へと戻っていった。

 

 

 その日の夜。快気祝は、町をあげてのお祭りさながらだった。
 その喧噪から少し離れたところに、ハロルドとハルトマンの姿があった。
「お前には礼を言っておく」
 ハルトマンは唐突にそう言った。
「どうしてです?」
 ハロルドが驚きながら聞き返すと、ハルトマンは目を閉じて言った。
「今回の件は、お前がいなければここまでうまくいかなかっただろう」
 黙って聞いていると、ハルトマンはそのまま話を続けた。
「下手を打てば、デマンティウス伯の真実を街の人々に伝えることはできなかった。いや、あの子を救ってやれなかった」
 その言葉を受けて、ハロルドは言った。
「あの子とは、エリカさんのことですよね。救うというのは?」
「デマンティウス伯が子供たちをさらったという事実は、偶然城に訪れた旅人に、あの子が『お城にみんながいて楽しい』と言ったことで露見した。ゆえに、あの子はずっとあることに苦心していた」
 ハロルドはそれで察したが、ハルトマンは続ける。
「父が死んでしまったのは自分のせいだ、ということに。わずか六歳の幼子だ、そのような考えに囚われてしまうには十分な事件だった」
「その重荷を下ろさせるために、この街に来たんですね」
 ハロルドがそう言うと、ハルトマンはわずかに微笑して、
「父の死という事実は消えない。だが、父の汚名を晴らすことができたのだ、少しは肩の荷を下ろしてくれればいいのだが」
 と言い、この話は終わりだというように黙ってしまった。
 それを見て、ハロルドは疑問に思っていたことを口にした。
「少し、聞いてもいいですか?」
 ハルトマンはしばらく黙考した後、薄く目を開いた。
「内容による」
 それと、本には書かないことが条件だ、と後ろに付け加えた。ハロルドは首肯を返した。
「ハルトマンさんは、十年前もここに来ていたんですよね?」
「ああ。十年前には、デマンティウス伯に、死にゆく自分の事は構わない、娘を頼むと頼まれた……俺は、あの人の真実を知らせるために尽力すると誓った。十年間、聖骸を使わずとも病を治せるように薬の作り方を探し求めた」
 ハルトマンは過去を懐かしむように目を細めた。その顔を見て、ハロルドは最も疑問に思っていたことを口にした。
「……あなたは一体何者なんです?」
 いまだに、この人物が何者なのかというのは分からないのだ。
「一昨日の夜、子供たちがさらわれたと思われる時間帯のことです。クラウスさんは診察室にいましたし、エリカさんは僕と話をしていました。一体どうやって子供たちを連れ去ったんです?」
「……この世には、目にするだけで聖骸の使い方とその力を理解する能力者がいる」
 ハロルドは、突然出てきた聖骸という言葉に驚く。
「ただし、その原理までは分からん。もしできていたなら、この世に量産できない聖骸はない」
「……南の方の街に行ったとき、聞いたことがあります。確か“知覚者”というそうですね」
「ならば分かるだろう。聖骸の中には、一切の気配を消すものもある。人ひとり連れ去ることなど、容易なのだ」
 ハロルドは言葉を失った。知覚者が噂だけの存在と思っていたからだ。
「そろそろ行くとするか」
 そう言って、ハルトマンは街の外の方に足を向けた。
「行ってしまうんですか?」
「俺が為すべきことは為した。最後の仕事を終えたらこの街を後にする。エリカとアインハルトによろしくな」
「最後の仕事?」
 ハロルドがそう呟くと、ハルトマンは歩みを止めないまま、首だけ振り返った。
「聖骸を悪用する知覚者もいるのでな」
 それだけを言い残し、ハルトマンは城の方へと向かって歩き出し、翌日にはもうその姿はなかった。

 その後、ハロルドは『雪の街ネーヴェ』という紀行文を発表し、その中で、デマンティウス伯の真実を語っている。当然、聖骸“女神の福音”の事も語られているのだが、旅行に行った者の話によると、古城にそのような鐘はなく、ただ広い空間だけが残っていたという。

 

 

 

 〜あとがき〜
 誤解されるというのは苦しいものです。それが心象の良いものでも、悪いものでも。
 というわけでどうも、蒼耀石です。この度は私の拙作を最後まで読んでいただきありがとうございます。
 作中では、本当はもう少しハロルドとハルトマンの視点を変更し、両者の思惑を記すという形にしたかったのですが、途中で断念しました。エリカと城内にいる子供たちの描写もしたかったのですが……なかなかうまくいかないものです。
 では、このあたりで失礼します。またいずれ、お会いできる日を祈って。(2011/01/24)
 
 
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